ジャンパー!!!準備は!!!


吉泉、旧姓葛西賀子は小樽工業高校2年の時に、岡部と運命的な絆を持った。
涙をふいて、心に刻みつけようと思う。

岡部が玄関で声を挙げた。
岡部と吉泉のラストフライトは、3月22日の大倉山ナイタージャンプだ。

1995年、カナダ・サンダーベイノルディックスキー世界選手権大会、この遠征に私は故笠谷昌生監督、笠谷幸生飛型審判員とともに参加した。
賀子が大転倒でもしたら危険すぎると中止になっただろう。

そして名寄ピヤシリ大会でそれは実現し、先日3月2日のTVH杯でも再現された。
私は、いま、多くを語る気力が湧いてこない。

いつか来る、もうすぐ来るとは思っていたが、その時を迎え無性に寂しい。
25名の試走者たちが守り抜いた助走路を日本の一番手、岡部が滑り137mのジャンプ台記録で日本を1位に引き上げた。

口には出さないが、こんな状況になるのなら、女子を入れるのではなかったと思った人もいただろう。
長野市内での表彰式の後、岡部が真っ先に向かったのは25名の試走者たちの宿泊所だった。

賀子は男子のスタートより10段高いところからスタートする。
ああ、ひとつの時代が終わる。

五輪でなければ、中止が当たり前の吹雪のなか、とにかく2本目を行わせるためには25名の試走者たちが飛び続け、飛距離を出せること、連続ジャンプで助走路に雪をためないことを目指して戦うしかなかった。
「おい、賀子、今ジャンプ界は沙羅ちゃん、沙羅ちゃんだから、俺たちみたいな年寄りが目立つのは、世界最年長ジャンパーの同一大会アベック優勝ぐらいしかないぞ!」今シーズン、国内開幕戦の名寄で岡部が吉泉に言った言葉だ。

みんなが泣いたという。
リレハンメル・長野五輪・札幌世界選手権、、、眉間にしわを寄せて頑張るのではなく、飄々と表情も変えず、心にユーモアとウイットを持って苦戦のなかに進み出る。

孤高の戦士、最後の侍、いつもそう見えた。
長野五輪の試走者・テストジャンパー25名のなかでたった一人の女子ジャンパーとして参加したのだ。

世界チャンピオン誕生に立ち会えたのだ。
つまり男子より5~6キロ速いスピードで飛ばざるを得ないのだ。

見納めだ。
その状況のなかで、賀子は123mを飛んだ。

岡部孝信43歳、吉泉賀子33歳、二人のレジェンドジャンパーが翼をたたむことになった。
「おかげさまで、金メダル、取らせていただきました」岡部が25名の首にメダルをかけ続けた。

しかし、岡部孝信の真骨頂は、日本が苦戦必至のときにチームを蘇生させる不屈の闘魂だった。
そしてこの時ノーマルヒルで優勝したのが岡部孝信だった。

吉泉の先輩たちは「賀子、いけよ!」、後輩の高校1年生たちは「賀子先輩、ガンバ!」と励まし続けた。
吉泉たち、試走者がその力量を問われたのは、長野に入って12日目、疲労の極限で迎えたジャンプ団体戦の日だった。

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